すきなことだけでいいです
お久しぶりです。生きてます。
引っ越ししてました。
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ピノキオピーというボカロPがいる。
彼の曲はシンセサイザーを利用したポップな曲調の物が多いが、そんな曲調から繰り出されるのは、意外なことに風刺の効いた歌詞だったりする。
今回のタイトルのすきなことだけでいいです、というのはピノキオピーの曲の名前の一つだ。
これも、僕の人生において多少なり影響を与えている。
↑出来れば歌詞に注目して聞いてみてほしい。
僕がピノキオピーの曲の歌詞を意識して聞くようになったのは結構最近だ。(具体的には一年前くらい。)
この曲は好きなことだけで良いんじゃない?って思っても、そうは行かないんだよねって話の曲。
例えば僕がよく話題に出してるホリエモンなんかは「皆好きなことをやったらいい。そしたら人は皆豊かになれる」と言うが、本当にそうだろうか。
全人類がすきなことやったら、世界は滅亡するのではないだろうか。
絵を書くのが好きな人もいるし、勉強が好きな人もいるし、研究が好きな人もいる。
少数派だろうけど、喧嘩するのが好きな人もいるだろう。
今の僕にとってはつまらない仕事も、人によっては”すきなこと”に分類できるのかもしれない。
でも、好きなことだけで生きたら、どこかの誰かの顰蹙を買うかもしれない。
僕が仕事を休んで、好きなことだけやっていたら、会社の人たちは迷惑する。
「どうしてあいつは好きなことしてんのに俺たちは嫌なことを我慢してやってなきゃいけねえんだ」ってなるじゃない?
だから、僕も我慢してるんだと思う。
この曲はそういうことを歌っていると思う。
でも、それだけじゃない。
この題名、「好きな子とだけでいいです」とも読めるし、歌詞の中にもそう思わせるような表現がある。でも、それすらも結局はそう上手くいかなくて、君は別の誰かが好きでしたってなっちゃう。
自分にどんな感情があってもそこに他人が交じることで予測できなかったり、行動が制限されて、どうしようもなくなっちゃう。
どうしようもないことなのに、結局好きなことは好きなままで、好きな子は好きなままだったりするのに。
きっと本当は誰もがすきなことだけで生きていきたいんだと思ってる筈なのに。
それ以外、要らない筈なのに。
小説を書くのが好き。
暗めの話を投稿してしまった故、どうせならちょっと別方向の話も書いてみる。
小説を読むのが好きだ。
趣味が高じて、書くのも好きだ。
僕は高校生の頃から仲のいい友人らが居る。
彼らは「小説を自分で書いたろうぜ!」という名目の元集まった、個性豊かなメンバーだ。(※なお現在は殆どのメンバーが書いておらず、日々ゲームしたり勉学に励んだり、昔よりとても散り散りになっている。)
彼らと話しているうち、自分でも書いてやろうと意気込んで、小説を書くようになった。
基本的に僕は話を紡ぐのは得意だが、最初しか紡げない。
続けるということが絶望的に下手なのだが、そんな僕でも一つだけ仕上げることが出来た小説があるので、下に掲載してみる。
なお、これは高校生の頃の課題で提出したもので、文字数制限があったためにかなり文を削っている。
いつか加筆修正したいものである。
今やれよ?うるせえ!読め!
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学校での授業も終わり放課後。文学同好会という名目で設立された読書同好会に与えられた小さい教室の窓際で、僕と先輩は本を読んでいた。
本の頁を捲る音だけが響いていた教室で、僕はポツリと呟いた。
「先輩って、僕が行く先々に居ますよね。この間買い物に行ったときも会いましたけど」
先輩が本を読むのを止めて、僕の方へ視線を向ける。
「毎回そうである訳じゃないだろう?まぁ、私だって私の行く先々に君がいて驚いているよ」
「なんというか先輩って、どこにでも居るけれどどこにも居ないような、そんな雰囲気ですよね」
「はは、シュレディンガーの猫か、私は」
そのまま先輩が本にまた目を落とすと、再び教室には本の頁を捲る音が響き始めた。
いつの間にか寝てしまっていたのだろうか、僕は机に突っ伏していた。
背中には毛布が掛けられていて、ふと見ると机の上にはメモ書きが残されていた。
あぁ、先輩は定期健診の日だっけ、と、活動が始まる前に先輩が言っていた事を思い出す。
先輩は病を患っていて、現代の医学薬学では完治まで持っていくことは難しいどころか進行を止めることすら難しいらしい。聞いた話によると症状は、初めに体の色素が抜け落ちていき、段々と体の感覚が失われていき、最終的には死に至るという物だ。先輩は既に体の色素が失われていて、見えるところだと髪の毛やまつ毛が既に真っ白になっている。あの調子だと最早感覚すら失われ始めていそうで、怖い。
先輩は僕と話している時、いつも気丈に振舞っている。以前先輩が僕より先に教室に来ていた時に驚かそうかと思って様子を伺ったら、心臓の辺りを手で押さえて苦しそうにしていたのだ。
それ以来僕は先輩の辛そうな姿を見ていないが、多分それは僕のことを気遣って、苦しいのを耐えているのではないだろうか。あくまで予測の域を出ないが、あの先輩の事だ、きっとそうなのだろう。
机に置かれていたメモ書きを見ると、案の定そこには定期健診に行く旨のことが書かれていた。
何度感じただろうか分からない、何もする事が出来ない自分自身の非力さを、また僕は感じる事になった。
次の日、先輩は学校には来なかったらしい。何かあったのだろうかと思い、学校が終わった後に先輩が通っている病院へと来て、先輩の居る病室の前に居るわけなのだが。もし先輩に何かあったら、という恐怖から後一歩を踏み出すのが恐ろしい。が、ここまで来て帰る訳にも行かないので覚悟を決め、唾を飲み込みノックをする。どうぞ、という先輩のいつも通りの声がしたので僕は安心してスライド式の扉を開けた。
扉を開くと、そこには病衣を着た先輩がベッドに座って、本を読んでいた。先輩はそのまま目線をこちらに向けずに話しかけてきた。
「やぁ、また会ったね」
「シュレディンガーの猫、ですか、先輩は」
顔だけこちらを向いて、少々やつれた様にも見える顔で先輩は力なさげに微笑んだ。
「ま、そんなところかな。いつ死ぬかも分からないこんな身体ならこの世に居るも居ないも同じだろう?」
それは違う、と言いかけて口をつぐむ。言葉だけでなら何とでも言えるのに、僕はそんなに安易にその先輩の言葉を否定してしまっていいのだろうか。今、先輩にどういう言葉を掛けたらいいのか、僕には分からなかった。
「…ごめん、私は今君に意地悪な事を言ってしまったよ。病気が今どこまで進行しているのかを聞いて、ちょっとピリピリしてしまっているのかもしれないな、私は」
自嘲気味にまた笑った先輩に、恐る恐る進行状況を尋ねると、先輩は少しずつ話してくれた。
病気の進行速度が今までの比にならない程の速さである事。もう学校には行けない事。手足の感覚が薄れ始めている事。そして、今も胸が圧迫されるような苦しさに見舞われている事。
聞いて、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。確かに予兆はあったのかもしれない。僕が先輩の苦しそうにしていたのを見たのは最近の事なのだ。
先輩がもっと遅くに産まれていたら、もしかしたらこの病気の治療方法だって見つかっていたかもしれないのに、と、心からそう思った。
「今君は、私がもっと遅くに産まれていたらよかったのに、とか考えていないかい?…それは間違いだよ。私がこうしてこの病気に掛かった事で、もしかしたら未来にこの病気に掛かった人を治療する方法が見つかるかもしれないだろう?
私が死んだら、この身体は病院側に引き取られて、そのまま研究材料として使われる予定になっているのさ。これは、私自身が望んだ事なんだ」
さて、と先輩が身体もこちらに向けてニヤリと笑う。
「私が学校を休んでいる間、学校で何があったのかを君に話しに来てもらおうかな。毎日とは言わない、忙しい時は来なくても構わない。…だから、私に顔を見せに来てくれ」
僕がその申し出を二つ返事で了承すると、先輩はありがとう、と小さく呟いた。
その日から僕は、先輩の病室に一日と欠かさずに通った。
先輩は僕の学校での生活の心配をしてくれたが、僕としては先輩と一緒に居る時間の方が大切だった。
僕がその日何があったのかだとか、先輩との思い出話をすると先輩が笑ってくれて、そういう先輩を見ると、その度にずっと一緒には居られないという現実が僕の胸にのしかかってくる。
だけども、だからといって僕が先輩の前で悲しそうな顔をすることは絶対にない。先輩が僕の前では明るく振舞ってくれたように、僕も同じように先輩の前では明るく振舞った。
「思ったのだが、忙しいときは来なくても構わないと言ったにも拘らず、君は毎日毎日この病室に来ているが、もしかしてアレか?私のことが好きなのか?君は」
不意に、本を読んでいた先輩からそんな事を聞かれる。余りにも突然だったので僕は驚いて、しどろもどろになって答えた。
「えぁ、う、そ、そう、ですけど」
そうか、と言うと先輩はまた本を読み始めた。
それだけ?と思ったのは仕方の無い事だと思う。が、その件に対してそれ以上僕が先輩に追求できるわけもなく、僕も持ってきていた本を読む事にした。
次の日の事だ。先輩は目が見えなくなった。残っているのは聴覚だけだと本人から伝えられた。
先輩はもう好きな本を読む事もなくなったし、僕の姿も見えなくなったが、声は聞こえると言うので、僕は来る日も来る日も先輩と話し続けた。先輩は、僕との会話で笑ってくれた。
僕が辛くなって先輩の隣で泣くと、先輩は触覚の残っていない手でそっと、僕のことを撫でてくれた。
君は子供だなと諭すように言いながら、ずっと。小さな手で。
「なんだ?私のことが好きな事ならもう知ってるが、それ以外の用か?」
ある日僕が先輩の名前を呼ぶと、笑って茶化してきた。僕は少々むっとして、そのまま押し黙る。
「…おい、そこに居るのか?私を一人にしないでくれ」
先輩が本当に心配そうに言い始めたので、僕は話しかける事にした。
「ここに居ますよ、先輩」
笑いながら僕が言うが、先輩は焦る事を止めない。
返事をしてくれ!という先輩の顔はどう見ても僕を騙すだとかそういう類の物ではないと分かる。
先輩はこの日、ついに五感全てを失ってしまった。
夜中の事だ。眠っていた僕は携帯の着信音で目が覚めた。着信の相手は病院からで、先輩の容体が激変した、と伝えられた。
病室に着くと、そこには先輩の両親と医師の姿があり、先輩は苦しそうに胸を押さえて蹲っているのが目に飛び込んできた。
「…君の、名前を呼んでいたんだ。どうか傍に居てやってくれ」
飛び寄った僕が先輩の手を取って必死に呼びかけると、耳が聞こえないはずの先輩が小さく、僕の名前を呟いた。
「私は…シュレディンガーの猫だ…どこにでも居るし、どこにも居ない。だから私が死んでも…決して悲しむことはない。私は、君の心の中に…ずっと、居るから」
そうだ、と先輩は微笑んで付け足した。
「返事をしていなかったな…私も、君のことが好きだよ」と。
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押し付けの幸福
はじめに
決してこれは自己啓発的な文章ではない。むしろ私の最近悩みのようなものである。
よかったら、これを読んでいる諸君も、諸君らなりの答えを考えて助けてほしい。
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幸せの形は、人によって違うものである。
存外世の中には、これを理解していない人が多いように思える。
かくいう私も物事の当事者になると自分の事で精一杯になってしまい、あまり周囲の人を気にしていられなくなるのだが。ただ、これを奥底の思想として持っているかいないかでは人間としてかなり雰囲気が違うのではないだろうか。
私が幸せだからあの人もそうであるべきだ。
きっとこれをしたらあの人は喜んでくれるだろう。
そういった考えは実は押し付けなのではないか?と、最近は思えるようになってきた。
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好きな人を諦めたくなかった。
私は最近まで、世渡り上手な方だと思っていた。
人と話せば大体の世間話には同調出来るし、嫌われない話し方というのが出来る。
仲がいい人は知っていると思うが、私は誰に対しても”敵対する行動”を取らない。
いじめられようが手は出さないし、馬鹿にされようが殆どの場合言い返さない。
それと、人に一度好意を覚えると、それを取り消すことが出来ない。
好きな人が嫌なことをしようと「でもあの人はいい人だから」と、私は諌めたいと思ってしまう。
多分、その人にいい人で居てほしいんだと思う。
ただ、それって押し付けなんじゃないだろうか?多方面的な物事の捉え方が出来ず、自分の考えに相手を当てはめてしまっているのではないだろうか?
本来ならば、その人の悪いところは見ないふりをするべきなのかもしれない。
私の周りの人達は結構単純で、たとえ仲が良かった人でも、その人が暴言を吐いていたりするとその人の見えない所で簡単に「あいつ嫌い、言葉きついし」と言う。ある意味尊敬する。私には決して出来ないことだから。
その度に私は「そういうのは直接言わないと変わらないよ、ちゃんと言いなよ」と言う。
そしてそのあと、本人にこっそり「最近○○君言葉きついぞー」と忠言したりするのだ。
これは、本当に正しいことなんだろうか?
私も周りに従って、その人からゆっくりフェードアウトするべきなんだろうか?
そんなのはあまりにも寂しいではないか。
だが、それは一切本人の幸せを考えていない。私にとっての幸せなのだ。
私はその居場所自体が好きだから、その形を崩したくなかったのだ。
だが、それが本人にとって良いことだったのかはわからない。そいつのことを揶揄していた友人が本当はそいつのことが嫌いで、離れて行きたかったのかもしれないと思って、結局身動きが取れなくなってしまった。
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異なる幸せの形がぶつかった時、一体どうするのが正解なのだろうか。
認め合える環境下にあるならば、互いのことを尊重出来るのが一番いい解決方法なんだと思う。
だが、そうではなかった時は?第三者が混じった時なんかは?
悩みの種は尽きない。
「私」という一人称の無敵さ加減は異常
今日は仕事をしながら何も考えていませんでした。
たまにはそういう日があっても良いと思うわけです。
お酒を飲んでしまっているので、普段よりグシャグシャな文章になるでしょう。
普段からグシャグシャなのに、もはや救いようがありません。
小学生の頃「私」という一人称を使う男の先生がいました。
小学生の頃の僕らは基本的に「俺」という一人称を使っていて、僕や私といった一人称を使っている人はいませんでした。
学校の先生達の中でも、基本的に男の先生は「僕」か「俺」だったので、「私」という一人称を使うその先生はある意味異端でした。
僕らはその先生の一人称が気になりすぎて、よく「センセーはなんで私って言うのー?」と聞いていました。
先生はその度「癖だからねぇ…」と笑っていました。
時は過ぎ、20になった僕は「私」という一人称をよく使います。
きっかけは些細なことで、専門校に通っていた頃の友人が私という一人称を使っていたのが伝染ったのです。
その友人は語っていました。
友人「いや、私っていう一人称最強でしょ!だってプライベートでも会社でもどこでも通じるんだよ!むしろこの一人称に慣れておいたほうが良いと思うわ!」
私「確かに!!!!!!!!!!!!!!!」
友人「だって私この一人称で得したことしかないもん!」
私「確かに!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!そうだろうな!!!!!!!!!!!!!!!!!」
結果がこれです。私は無事、私という一人称を使いこなすことが出来るようになったのでした。
ただ、一人称は私にとっては不安定なもので、気分によってかなり使うものが変動するので、結局どれ使ったって問題はないのでは…?とたまに思います。
ただ、私って一人称って大人っぽくて格好いいな~って思います。それだけです。今日はそれだけ!!!!!!!!!!それではまた!!!!!!!!!
音楽は音楽。作っている人は人。
音楽は楽しいんです。
誰にとっても音楽は身近な存在で、どこを見てもすぐ隣にいてくれるような存在だと思っています。
それは本当に、誰にとっても例外ではありません。
テレビを見ていればCMだって、番組内でだって。
動画を見ていれば、そのコンテンツ内で。
生まれたその瞬間から、老いて死んでいくまで。
日々を過ごしていれば、触れないことはない物。それが「音楽」というものだと思います。
それに如何様にして触れ、どういう気持ちを持ってそれに取り組んでいくのか。
僕は、音楽が作りたい。
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最近、音楽を始めるために色々と買い物をしました。
ギターとか、DTM(Desk Top Musicの略)の道具とか。
結論から言えばまだあまり手を付けていないんですが、見ているとやはり楽しい。
小学生の時から音楽の授業ってありますよね。
あの時代って、リコーダーを吹いたり、鍵盤ハーモニカを吹いたり、合唱コンクールに向けて皆で力を合わせて歌ったり。そんなことしかしていなかったような気がします。
今思い返せば、もっと深く音楽について教えてもらいたかったなと思うのですが、あの時はそもそも”音楽”という物自体に興味を持ってもらうのが多分先決だったんでしょうね。
今更そんなことを納得しても遅いのですが、もったいなかったなぁと思います。
音楽理論を知っていくと、この世界にある曲の大半がどう作られているのか何となく分かるようになります。
「あぁ、この曲はこういう構成なんだな」とか、分かるだけで音楽を聞くのが楽しくなっちゃうんです。
楽しくなれば楽しくなるほど、もっと音楽にのめり込んじゃうんです。
作りたい!と思うのも必然だなあ、と感じざるを得ないです。もはや。
別にステマをかけるわけじゃないんですけど、是非とも音楽に興味を持ってみると面白いかもしれません。
さて、本題です。
音楽は音楽。作っている人は人。
これをいつも思っているのですが、案外世の中はそうじゃないらしくて僕はよく悲しいな、と思っています。
例えば、ゲスの極み乙女。の川谷絵音氏と芸能人のベッキー氏っていましたよね。
色々とスキャンダルを起こして、それに関して一悶着ありました。
僕は例のごとくTwitterのタイムラインで彼らに対して色々な批評を目にしたんですが、その中でも悲しかったのが
「川谷絵音には失望した。もうあの人が作る音楽は二度と聞かない!」
といった言葉が非常に多かったことです。
題にも書いたとおり、僕は「音楽は音楽。人は人」だと思っています。
だってそうじゃないですか。
音楽はあくまで「組み合わされた音」なんです。
そこに個々の感性で好き嫌いはあれど「あの人が作った曲だからクソ!」みたいな評価は違うと思うんです。
その曲の中には作者が伝えたいことや、気持ちが装飾されているとは思いますが、それは当然です。
問題は「あの人」が作ったという個人を意識して聞くことです。
例えばモネやダリなんかの絵画ってありますよね。
アレに価値を感じる人ってその人が書いたから感銘を受けているわけではなくて、絵画が素晴らしいから感銘を受けているんだと思うんです。(そうであってほしい)
音楽もそれと同じで、まずは”作者の人格”というフィルターを通さないで聞いてほしいんです。
そして、この音楽はいいな。この音楽はあんまり好きじゃないな。と感じて、好きなのであれば、それから作者はこういう思いでこの曲を作ったんだろうなと、思いを馳せて欲しいんです。
濁った目で物を視るのは、もったいないと思うんです。
「音楽は音楽。作っている人は人」なんです。
もっと語りたいこともあるのですが、今回はこの辺で。
それでは、また。
頭では理解できる。感情は理解してくれない。
どうしようもなく動きたくないことってありますよね。
僕の場合も勿論そうで、どう頑張っても布団から起き上がれない事があったりします。
これをやろうって決めても、それを実行しないまま一日が過ぎていったりすることもあります。
頭じゃ分かっちゃいるんですけど、体がついてこないとかもあるんですが、それ以前に心がついてこないんですよね。
僕の場合そういう事が非常に多くて、動けない自分に対して自己嫌悪してしまうことがあります。
多分、そういう人っていっぱい居るんだと思います。
堀江貴文氏曰く「俺は何かをしたい人が『堀江さん、こういう企画があるんですがどう思いますか?』と言ってきても『やってみなよ!』としか言わない」らしいんです。
そして、それを実行しない人のほうがやはり多いんだそうです。
何事をするにも、結局は殻を破って飛び出さないと何も始まらないのに。
幸運は向こうからでもやってくるかもしれないけど、その確率は非常に低いのに。
美男美女の隣に居る人は、その人に告白する勇気があった人間であって、殆どの場合でその人に告白された人な訳ではない。
ごもっともなんです。それ。少なくとも僕には反論できない。
例えば、これから僕が行動を起こさずにダラダラと日々を過ごして、40年そこそこ今の会社で働いて、そのまま死んでいく。
そんな人生で満足できるかと言われたら、絶対にできないと言い切れるでしょう。
でも、感情は理解してくれないんです。
やらなきゃいけない、動かなきゃいけない。
そう思うのに「準備が出来たら」「今はその時じゃない」「ステイッ!ステイッ!」と、動かないままなんです。
でも面倒臭いし…
でも不安だし…
と躊躇っているような僕らは、多分馬鹿なんでしょう。
良い馬鹿ではなく、悪い馬鹿。
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でも自分が馬鹿って分かっただけで動けるようになったら苦労せんやろがァ!!
その通りです。僕もそう思います。
なので、少しずつ自分を「動くこと」に慣らしていくこと。
そして、「行ける!」と思った時に爆発して進むこと。
大切なのはきっと、その2つだと思います。
人間が成長するのは、動くからです。
何もしないでいたら、止まったままなのです。
なら、動いたほうが得かな、とちょっとだけでも思えないでしょうか?
実際の所、動くことが「何か」につながることは昔から哲学者や、有名人が名言を残しています。(今調べてみたらいっぱい出てきてビビりました。下のリンクです。)
行動・動くことに関する名言集 キーワード別−名言から学ぶ幸せのヒント
まとめに。
「動く」の定義も人によって違うと思うので、自分が思うようにまずはやってみるのがいいと思います。
因みに僕はぜっっっっっっっっっっっっったいにノマドワーカーになってやります。
大切な人と、大切な時間を過ごしていられる人になりたいので!!夢は叶えるものです!!
どんどん動いてみようぜ!
これを見た人が「少しでも動いてみようかな」と思えたら幸いです。
それでは、また。
完璧超人にはなれない。
僕は人の話をすぐに受け入れるという意味で、たまに人から「スポンジみたいな人」と評されることがある。
そんなスポンジが受け入れられなかった話を一つ、してみよう。
19歳の頃、恋人にフラれて傷心中だったスポンジは、ふと親が読んでいた本を思い出した。
『嫌われる勇気』という本だ。
ドラマの原作にもなったような本だ。人によっては読んだこともあるだろうし、名前だけなら聞いたことがある、という人も勿論いると思う。
読んだことのない方の為に簡単に説明しよう。
『嫌われる勇気』は「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」と断言し、対人関係を改善していくための具体的な方策を提示していくアドラー心理学を、とっつきやすいように哲学者と青年の対話形式にして書いた名著である。
堀江貴文や、西野亮廣なんかもこの本はすごい!と言及している。
堀江貴文に至っては「自己啓発本はこの本以外は読まなくてもいい!」というようなことを言っているくらいだ。
そう。たしかに、対人関係の問題や、その解決方法についてはこの本に書いてある通りだと思う。
だが、スポンジは一つ異議を唱えたいと思う。
それが出来れば苦労はしねぇ!!!!!!!
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本の内容を少しだけ紹介すると、このようなことが書いてあります。
・「トラウマ」を否定せよ。そんなものは存在しない!
・あなたの人生は過去には存在しない。「いま、ここ」で決まる。
・承認欲求を否定しろ!そんなものはいらん!
・あなたはあなた。私は私。誰かの課題を君が抱え込む必要はない!
・「自分が正しい」という自己肯定ではない。「間違っていたとしても、これでいいんだ」という自己受容をしろ!
・普通であることを肯定せよ。
出来るか!?出来ねえよ!!!!
これを出来る人がいるならばぜひこのスポンジと友達になってほしい。
あとなんか腹立つから1発ぶん殴らせてほしい。
でも、何もかもが間違っているというわけでは決してない。
自分が普通であることを肯定するのはスポンジには出来なかったけれど、掘り下げて考えてみた結果「変な人」というのは、その人の主観で決まるものでしかない、ということにも気付けた。
承認欲求を否定することも出来なかったが、代わりに承認欲求がある自分を認めてやることは出来た。
誰かの課題を自分が抱え込む必要がなくても、そうすることで自分が楽になる事があることもハッキリした。
恐らく、この本が言いたいこととは別方向でスポンジの中で解決してしまったこともいくつかあるのだと思う。
でも、今となってはこれでよかったのかもしれないなと思う。次作である『幸せになる勇気』もポチるくらいには名著だったと思う。
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この本に書いてあることで、一番共感した文は
あなたはあなた。私は私。
という一文である。
これはこの本自体にも言えることで、決してこの本に書いてあることを全て実行しろ、という訳ではないのだと思う。
アルフレッド・アドラーはアルフレッド・アドラー。スポンジはスポンジ。そして、このブログを読んでくれているあなたはあなた。
だから、自分にとって感銘を受けたことや、感動したこと。共感したこと。
そんな事を一つ一つ、丁寧に、大切にしていけばいいと思う。